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2018年ありがとう

雲の間に、明るい星が瞬いていた。 寒さの中に清々しさを感じる瞬間である。 今年いっぱいの仕事が終わり、大掃除を終え、まるで時間といろいろな用事の塊にしがみついて、振り落とされないようにこの大晦日にやってきた、という感じだ。 音楽の方では、ライブや、様々に遣っていただいた企画に足を運んでくださった皆様、関係者の皆様、そして仲間や友人たち、今年も本当にありがとうございました。 月並みだが、来年もますます精進して、そして家族の絆や仕事とのバランスを大切にしながら歩んでいきたいと思います。 来年もどうぞよろしくお願いいたします。

おとぎ話の夜 2018年12月

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NolenNiu-de-Ossi/丸山研二郎&原口朋丈「おとぎ話の夜」には、たくさんの方がお越し下さいました。 ありがとうございました。 LPレコードを発表させていただいた前回から半年。 素晴らしい先輩、デ・オッシも前に進んでいて力強く、僕たちも僭越ながらちょっと新しいものを聴いてもらうことができた。 少し風刺的な意味合いを込めた新曲「魚」と、先日の投稿でも書いた、娘と一緒に作った「ホーさん」という曲。 どちらも好評を頂いて嬉しかった。 デ・オッシのふたりは、最近はその前進であるバンド「まほろば楽座」時代の曲を再アレンジすることに力を入れている。 僕も当時の音源をいくつか聞かせてもらっているが、4人いたバンドの頃より、今ふたりが演奏するアレンジのほうがむしろ厚みがあって表現に富んでいて面白い! もちろん、当時のものも素晴らしいのだけど。 ミュージシャンの中には、ベースが入ればサウンドに厚みが出る、ドラムがいるからリズムキープできる、人数が多いほうが複雑なことができる、などなどと思いこんでいる人が意外とたくさんいる。 実は本当はみんな逆なのだ。 逆といえば極端だが、低音が加われば、上モノは高音を意識して担当しなければならず、リズムを打楽器に頼れば頼るほど、打楽器奏者はそちらに専念しなければならず、感情表現としての打楽器の魅力は失われてしまう。 いかに手数を減らすかがバンドの仕事なのだ。 デ・オッシサウンドは数々のアンサンブルの障壁を見事にクリアしている。その努力たるや同業者としては、ちょっと、いや~、まじですか…、すげー、という感じなのだ(どういう感じなのだ?)。 ややもすればクソダサいアレンジになってしまう、和楽器と洋楽器という組み合わせ。 ピアノとギターという、ありふれたようで実は難しいとされているアンサンブル(担当する音域が近いので、下手同士がやるとぐちゃぐちゃになってしまう)。 そこで一番大事になってくるのが、いかに最小で最大を伝えるかということ。 鳴っていない音を、鳴っているかのようにイメージさせる、情緒的なアレンジの技術だ。 和楽器と洋楽器、民族音楽とポップス、動と静、古い言葉と新しい言葉、など相反するものが同時にぐちゃっと丸まっているこのイベント。 一見、打ち消し合うかの

ホーさん

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3才の娘が食事中に急に振り返って何やら話をしているので、だれと話してるの?と聞くと、 ベルギルスのタンドコのお肉屋さんのホーさん と話していたのだそうだ。 きっとベルギルスという星のタンドコという国から、異次元を通って地球にやってきたのだ。 娘いわく、最近はタンドコからバロギリというところに引っ越したらしい(笑 おもしろいのでホーさんの歌を一緒に作りました。 これはイメージ画。 ホーさん ベルギルスのタンドコの お肉屋さんのホーさんは バロギリに引っ越して 今でもお店をしているよ 一日楽しいことができる ホーさんだよ 寝るとき一日を振り返る ホーさんだよ

次代に残したい静岡の歌WS

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少し前ですが、静岡大学が行っている「アートマネジメント人材育成のための100のワークショップ」の講師を務めました。 CD「静岡県郷土唱歌」の仕事が評価され…というとおこがましいが、そんなからみでお声掛くださったわけです。講師なんてとんでもない、こちらが勉強をさせていただいたという次第。 ワークショップは「次代に残したい静岡の歌」というテーマで受講生の皆さんにグループで作詞をしてもらい、それに僕が歌をつけ、録音をする、というもの。 まずはリズム遊びから始めて、静岡に関する連想ゲームのようなコール&レスポンスをする。 もう一つ鉄道唱歌のメロディを使って「連歌」のように相手の詞と物語をつなげていく遊びを、ゆっくりと言葉を発想するエクササイズとした。 もちろん、皆さん普段はアート・デザイン、そしてそれを取り巻くお仕事に関わっている方々。作詞などお手の物かもしれない。 でも、以上のような遊びを通じて、リズムという制約の中での自己表現と、それを受容する気持ち、相手の物語を受け継ぎつつ、自分なりのウィットを加えていく、という思いやりの姿勢をもう一度体感したかった。 そして、恐ろしいほどに熱心な皆さんは、すばらしい詞をひねり出してくれた。 ここに5曲の静岡のための歌が完成したわけです。 【受講者による新静岡唱歌】敬称略 *「しずおかのひと」 (作詞:白鳥、本間、高岡  作曲:丸山研二郎) *「だもんで だいすき しずおかじん」(作詞:高橋、深野、牧野  作曲:丸山研二郎)  *「めぐる風 〜いとしき街と季節〜」(作詞:大塚、藤井、阿部、白井  作曲:丸山研二郎)  *「この街」(作詞:高島、板倉、山本  作曲:丸山研二郎)  *「はるかな三保」(作詞:柴田、飯塚、伊東  作曲:丸山研二郎) さあ、どんな歌かは、とりあえず受講した方々と関係者のみのお楽しみということで。 いずれ何かの機会に皆様のお耳に触れることもあるかもしれない、と期待しつつ。 新しい経験と出会い、素敵な歌をありがとうございました。 またどこかでお会いしましょうね~。 静岡大学アートマネジメントのウェブサイトで当日の模様をブログにしてくれたみたいです。こちらもよかったら見

10枚!

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衝撃を受けた10枚のアルバム。 というのを音楽仲間がブログに書いていて、コメントをしたりしていたら、なんとなくこちらの方に回ってきたので考えてみた。 一枚一枚よい音楽を紹介していくのは大好きだが、10枚を選ぶとなるとこれは難しい。 そもそも「衝撃」とはどんな気持ち??というところから始まるのだ。 今まで歌謡曲しか知らないところに、初めてジャズを聞いた、とか、初めてアフリカのなんとか族の音楽を聞いた、という時のように、少年の頃に新しいジャンルの音楽を聴いて、なんじゃこりゃ!どういうふうに聴いたらいいの!?という感情は確かに衝撃であった。 しかし今となっては、さすがにその種の衝撃はやってこない。 なので、そういった気持ちも含め、影響を受けた、気持ちを救われた、とにかくそればっかり聴いた、などなど、いろいろな意味で思い出に残っているアルバムを選んでみたい。 なんだかエラソーだが、どれも愛すべきいい音楽なので、もしご存じないものがあれば聴いてみてほしいと思う。 1 シベリウス 交響曲第2番 https://www.youtube.com/watch?v=y4UJqOQ0x4s 子供の頃、父親と一緒によく聴いた。僕の音楽の原体験。 第4楽章のクライマックスに行くまで、ハラハラとしながら聴いたものだった。 クラシック好きの人に話すと「ああ、あれね。」と鼻で笑われてしまうぐらい、その世界では有名な曲だ。記憶にある限り、僕の音楽に対する「感動」はここから始まったと思う。 2 Duke Ellington & John Coltrane https://www.youtube.com/watch?v=m2agjcTUgF8 中学生ぐらいのころ、家の捨ててしまうようなガラクタの中に一本のタイトルのないテープがあった。何が入ってるのかな?と何気なくかけてみたところ、いかにも不思議な音楽が流れてきた。 「ジャズ」という言葉すら知らなかった僕は、そもそもこのテープの中に入っているモノは「音楽」なのかしら?と思いながら、なぜか何度も何度も聴いた。 ちょうどその時、ごろごろしながら読んでいた漫画「銀河鉄道999」の世界観と妙にマッチしたのを覚えている。 それがこの有名なアルバムだと知ったのは、成人してからだ。 ジャ

DNA

SNSの動画で、DNA鑑定をして、その人の何代も何十代も前の先祖がどこに暮らしていたかを解明するというのを見た。 遡ると、本人は思いもしない遠い外国の血が混じっていたりする。 何% 何人 何% 何人 … … というような感じでデータが出るらしい。 ある人が普段から「何となく〇〇(国の名前)の人って苦手」と思っていたら、その国にかつて支配を受けていた民族の血が入っていた…、とか。 本当かな? と、思うが、無意識にDNAが持っている情報が影響するのだろう。 今生で得た知識や体験以外に、自分の考え方を左右するものがあるということは、とても不思議だ。 ところで、 僕は、ミャンマーのサウンという竪琴を使った歌と、ちょっと離れてフィンランドの民族音楽のメロディが妙に好きだ。 世界中の音楽を等しく大好きなつもりなのだが、なんというかグッと来かたが違うのだ。 日本の民謡だと、奄美の音楽が妙に好き。 懐かしい感じがするんだね。 僕は何%かミャンマー人で、何%かフィンランド人で、何%か奄美人なのだろうか。 祖母が、うちは平家の血だよ、と言っていた。 ほんとかどうか知らないが。 奄美には平家の落人が流れていったらしい。 意外とあたっているのかもしれない。

川原でごはん

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最近我が家では、妻の力強い発案で「川原で朝ごはんを食べようの会」がブームである。 朝早く起きて、川の上流のいいところで朝ごはんを作って食べ、昼ぐらいまで泳いだりして遊んで帰ってくるのだ。 お料理には、小さなバーベキュー用のコンロを持っていく。 野菜やお肉を串にさして焼いたり、豚汁を作ったり、これがなかなかオツなものである。 猛暑とはいえ、清流で日陰にいると結構涼しい。 妻と娘は浅瀬で変な踊りを踊ったりしているので、僕がご飯係である。 この企画自体、仕事と子育てでくたびれている妻と、毎日こども園で頑張っている娘がリフレッシュするためのものであるので、それを見ている僕も非常に楽しい。 ご飯を作り終えると、僕も川に飛び込むのだ。 プライベートな写真しかないので、イメージはイラストで。 最近は、何かにつけて娘も「また、かわにいきたいね~」などと言うようになった。 癒やし度はほぼ満点である。 最近は、ゴミの持ち帰りも徹底されてマナーのいい人が増えてきた。 しかし、ただ一点だけ苦情がある。 他団体さん。みんなで集まって楽しいのはわかるが、音楽などをかけるのはできれば止めてもらいたい。 ゴミは回収できるが、流れてくる強烈なイメージは回収できないのだ。 せっかく、ひぐらしの声とかを聴いて心をチューニングしに来ているのに、現実に戻ってしまうではないか。 こないだは大きな音で安○地帯をかけている人たちがいた。 川原で玉○浩二は特に勘弁してもらいたい。 いや、普段は好きなんだけどね。

癒やし

連日猛暑が続いているが、ひそかに秋の準備も始まっている。 青い柿の実が大きくなったり、夜には涼しい風が吹いて、秋の虫たちもチリチリと鳴き出した。 虫の音を、窓際で聴くともなく聞いていると、とても心地よい。 「癒やし」とは無条件でなければならないと思う。 歌には歌詞があり、タイトルはイメージを操る。 そこには、「意味」や「メッセージ」が乗っている。 “音楽に癒やされる”というのは、誰しも持っている体験だろう。 でもそれは意外と、ラブソングに共感して切なくなったり、新しい言葉に考えが変わっただけではないだろうか。 意味やメッセージは、音の出る方を向いてもらうための鍵だ。 言葉は条件を作って限定していくことしかできない。 ある考え方を持てば、違う考え方とは敵対することになる。 そこに葛藤が生まれて、癒やしとは反対の感情が生まれる。 音楽の本当の目的は、自然に、何かが整っていくことだと思う。 利害や、同じ考えを持つという条件でなく、無条件に他人とつながっていくこと。 それが一番の癒やしだ。

言葉に関するくだらない考察 その2

そういえば、相手を呼ぶときのちょうどいい言葉ってないよね。 とふと思った。 日本語には、「敬意逓減(ていげん)の法則」というのがある。 長く使われている言葉の、丁寧な印象がだんだん失われていくというもの。 最近、「~させていただきます」がやたらと乱発されるのもその一つだろう。 「させてもらいます」とか、「いたします」では何となく失礼に聞こえるようになってきちゃったのだ。 「お前」はごく身近な目下の者にしか使えないし、同じように二人称である、「君」とか「あなた」とかも非常に使いづらい言葉になってきた。 すでに僕たちの世代は「あなた」と呼ばれると、何となく上から言われているような印象を受ける。友達に「君さあ」というのもちょっと怒っているみたいだ。 さてどうしよう。 そこでよく使われるのが「あっ」という言葉である。 いちいち名前言うのも違うし、うまく相手を呼べないけれど、いきなり本題に入るのも不躾だというときに、よく、 「あっ、そういえば、こないだどこどこ行った?」 などと使うのだ。「あっ」のところに「きみきみ、聞いてくれたまえ」という意味がこもっている。 でも、「あっ」は二人称じゃないしなあ。 「YOUさあ」とか「お主は」などふざけて使うときはあるが。 「君」と「あなた」が勢いよく生きているのが歌詞の世界だ。 使わないと意味が伝わらないのでね。 きざな言い回しにすると、すこし敬意というのは上がるらしい。

言葉に関するくだらない考察 その1

最近なんだか残念なこと。 トラックやワゴンなどによく社名が書いてありますよね。 進行方向から読むようになっているので、車体の右側は右から左へと読むように書いてある。戦前の読み方ですね。 これが最近減って、反対側も普通に読めるように左から書いてある車が増えてきたのだ。 なぜ残念なのか、まったくくだらない理由だが、反対から読むとただ面白いのだ。 「スーリタンレラハイ」とか、「ムテスシトイア」とか書いてあるのだ。 一番のヒットは、 「キンデダンホ」 であった。 まったく共感の得られない話だ。 社名変なことに使ってすみません。

根っこ

アパートの外の花壇にジョーロで水をかけていてふと思い出したこと。 幼稚園のころ、一人ずつ育てていた朝顔に水を上げるとき、 お花のところにたっぷりかけてあげようね。 お水をかけるとお花さんが喜んでいるよね。 と教わった。 僕は、きらきらと輝いている花の笑顔を思った。 小学校に上がって、同じように課題であった朝顔の花に水をやっていると、 ねえ、まるやまくん、上から水かけてもしょうがないよね。 植物は根っこから水を吸うんだから、この下の土のとこにかけてあげなくちゃ、水がとどかないでしょ? と先生が言ったのだ。 僕は少しのショックを覚えた。 それは小さな小さな「現実」に出会った瞬間であった。 子どもは空想のゆりかごの中から、少しずつ現実の苦さや、また旨味を知り大人になっていく。 空想の中で見たものが、外の世界をどう捉えていくかの色眼鏡に変化していくのだ。 空想と現実が上手に入り混じって、初めて人間らしいやさしさが生まれる。 周りの大人達がしてくれたように、僕も自分の子だけでなく、関わる子どもたちのゆりかごを守るように子育てをしていきたいと思う。

忙しいのである

最近は連日猛暑が続いている。 まずは大雨などにより被災されている方々に、心からお見舞い申し上げたい。 最近すっかりブログというものを書いていなかった。 ほぼ毎日更新していた時期もあったが、そんなころとは比べ物にならないぐらい忙しくなったのだろう。 というのは、やはり子育てという一大事業に心を費やしているからに他ならない。 以前はあんなによく見て記事にしていた自然や景色も、ほぼ目に入らないぐらいのスピードだ。 家にいるときはほとんど子どもにまとわりつかれているので(半分はたのしいのだが)、まずはこういった二次的なことは後回しにせざるを得ないのだ。 とはいえ、そればかりが人生ではない。 誤解を恐れずに言えば、親が趣味も何もかも捨て去り、とにかく子供第一第一で邁進する家庭というものは、実は、意外と、ああごめんなさい、怒らないで、とついたてに隠れながらも言わせてもらうならば、意外となんだか却ってギクシャクしているように思う。 ある意味、いい加減さというか、テキトーさのようなものは大切にしておかないといけないなと思う今日このごろである。

正直の音

うちの近所でうぐいすが鳴いており、 今日行ったところでは、ツクツクボーシが鳴いていた。 なんだか真ん中がすっぽ抜けたような音だった。 でもすごく自然で頼りがいのある音だ。 季節外れでも、そういうものになりたいと思う。 今日、仲間のミュージシャンと生活や人生観についてとっても深くまで話し合った。 なんだか嬉しく、久しぶりにそんな話をしたなあと思う。 本音をみっちり話し合える機会は最近殆どなかった。 本音ってなんだろう…、とまで思っていた今日このごろである。 あはは、ネガティブな話はあんまりしたくないが。 歯に衣着せないのは良くないが、かなりのところまで正直でいいだろうと思うのだ。

キャンドルナイト~文化祭

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藤枝のカフェ「XOXO(キスキス)」さんでのキャンドルナイト。 ニマメキャンドルの気持ちの良い明かりに照らされて、とてもよい場所になった。 来てくださった皆様ありがとうございました。 今回は、妻子連れで一緒に楽しませていただいた。 普段は人見知りな我が子もはしゃいでしまい、最後はニマメキャンドルさんに懐きまくって、「にまめさーん!」と大騒ぎするという始末であった。 XOXOは建設会社さんが運営するカフェで、すごくスタイリッシュな内装にもかかわらず、なぜかあたたかい。 それは、なんだかそこにいるスタッフの皆さんの飾らない人柄によるものだったかもしれない。 僕がミュージシャンをしていると知って、招いてくれた巣山(今は佐藤)さんは大学の同級生で、なんと10数年ぶりに再会した。 全く変わらない彼女の人柄に、なんだか嬉しかった反面、アーティストとして活躍する姿に刺激を受けた。 きっとたくさんの人に会いに行ってほしい。 翌日は、 「代謝するまち」をテーマに行われた、旧・静岡市立青葉小学校のメモリアルイベント、 「うまれかわりの文化祭」にて、静岡県郷土唱歌を披露させていただきました。 来月には取り壊しが始まり、歴史博物館へと建て変わる。 予想を超えるものすごい人で、いたるところで同窓会が行われており、いろいろな人の時間軸が交錯して、僕はぽわーっとなってしまったのであった。 それはみんなの幸せエネルギーだったかもしれない。 何十年もの世代を超えて共感をよぶイベント、すごかったなあ。 主催の静岡オーケストラの皆様!お疲れ様でした。 建物は変わったが、明治からある学校で郷土唱歌を披露できたことはとても嬉しかった。 耐震のことなどもあり、すべての歴史ある建物を残しておくことは難しいのかもしれない。 物には思いが宿るだろう。 その思いが解き放たれて、次にどんなものにうまれかわっていくのか、同じ街に暮らす一市民として見届けていきたいと思う。

ハルクサンスー

子どもの言葉シリーズ。 この間、子どもが椅子の上に座って「ハルク・サンスー。」と言っていた。 なに?と聞き返すと、膝を指さしてハルク・サンスーと言うので、 座り方の名前なのかな?と思い「ハルク・サンスーっていうすわりかた?」と聞くと、 「わかったじゃん!」 と得意そうに言うのであった。 子どもはちょうど“う〇こ座り”みたいな座り方をしていた。 ふむ、きっと小さい子にしかわからない赤ちゃん語のようなものがあるのだ。 父は「わかったじゃん!」と褒めてもらえてうれしいのであった。 ところで、「ハルク」と「サンスー」のどちらが「う〇こ」でどちらが「すわり」を指すのだろうか。 いや…、「うんこ座り」と訳されるとも限らん。 あ、〇してなかった。 とうとは、ハルクはホーガンで、サンスーは苦手なのである。

おとぎ話の夜 東壽院~大阪

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「おとぎ話の夜」at東壽院、そして大阪編の2つのコンサートが盛況のうちに終了しました。 来て下さったお客様、東壽院ご住職はじめ、お寺の皆様、スタッフの皆様、大阪・雲州堂の皆様、ありがとうございました! 昨年、決まっていた会場が突然使えなくなり、たどり着いた第一回目の東壽院さんでのコンサートは、告知も遅くなり、控えめなお客様になってしまったが、会場の幻想的な雰囲気からわれわれの演奏にも力が籠り、いまだに「あの時はよかった。」と言ってくださる方もいる。 そして今回の再演では、満を持して満席のお客様に聴いていただくことができた。 飛び切りの感謝を込めて演奏したつもりだったが、どのように伝わっただろうか。 翌日の大阪・雲州堂は4年ぶりの出演。(思えば、子どもが生まれる前にすでに遠出のツアーは止めていたので、ほんとに久しぶりだったけど、何だかつい最近も来ていたような気がした。) 前日の余韻を引きずって、というかもう何かから解放されたような気持でのびのびと演奏することができた。 デ・オッシの演奏もいつにもまして心地よく、お互いの曲に参加するセッションも、コミュニケーションが深まったようだ。 NolenNiu-de-Ossiと2組でのライブを「おとぎ話の夜」と名付けてどのくらいだろうか。 最初は、風景描写が得意な珍しい音楽をやる2組のライブというぐらいのイメージだったと思う。 ところがいつの間にか、おとぎ話という言葉が妙に深みを持ってきて、なんだかひとつの地図の中にそれぞれの歌の世界が共存しているように思えてきた。 そうしたら、レコード化のお話をいただいた。 レコード「おとぎばなしの夜」は両A面で片面ずつお互いの曲が収められているが、まったく知らない人なら、同じバンドだと思うかもしれない。 大げさかもしれないが、特に続きになっていてボーナストラックも入っているCDを聞いていると、そんな感じがするのだ。 デ・オッシのやっさんは、導かれた導かれたとしきりに言っているが、確かに僕もそんな気がしている。 僕の縁がデオッシを、デオッシの縁が僕を、そしてイベントを通じて出会った皆さんの縁が僕らを引っ張って、ぐるぐる回している。 おとぎ話の世界の中に、今までは全く縁のなかった先輩方、または心を込めて演奏

LPおとぎ話の夜

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何だか不思議な気持ちである。 「おとぎ話の夜」というLPレコードが完成し、そこには僕たち、丸山研二郎 & 原口朋丈(ゲストにてづかあい・加瀬澤彩友美)の歌と、NolenNiu-de-Ossiの歌が両A面で吹き込まれているのだ。 デ・オッシの2人に出会って何年になるだろう。 僕はどうも記憶力に問題があるらしいので、いつどこで出会って、何年に一緒に何をして、というのははっきり覚えていない。 気がついたら一緒にツアーをし、音楽について語り合い、そして友人としてもかけがえのない存在になっていた。 妻が、デ・オッシのやっさんに「研二郎の心の支えになってくれてありがとう~云々」というメールを送ったらしい。 それを聞いて、そうか自分では気が付かなかったが、はたから見れば心の支えにすらなっているように見えたのか…たしかにそうだ、ありがとうと思ったのである。 そんな、尊敬する音楽の先輩でもあるミュージシャンと僕は、「おとぎ話の夜」という企画ライブを静岡で行ってきた。 そのライブで培った世界観をたっぷり封じ込めた珠玉のレコードである。 ----------------------------- 幻想的で妖しい歌詞の世界、和楽器と洋楽器の新しい対話、フラメンコやロック、フォーク、トラディショナル、そして邦楽、様々なジャンルの瞬間が垣間見える、万華鏡のようなアンサンブル。 これまで作り上げてきたデ・オッシとの企画「おとぎ話」シリーズの美しい時々が凝縮した、聴き応えのある作品に仕上がっています。 プレイヤーがないから聴けないよ!という人のために全曲+ボーナス・トラック入りCDもついていますよ(CDのみの販売は出来かねます。ごめんなさい)。 まずはぜひ、ライブ会場にてお買い求め下さい。 もちろんゆくゆくは、インターネットでも購入できるようになります。 おとぎ話の夜(A Night of Fairy Tales) NolenNiu-de-Ossi / 丸山研二郎 & 原口朋丈 FACE1 NolenNiu-de-Ossi 1 眠りの町 2 見知らぬ町 3 雨奇晴好 4 馬酔木の花 5 惜別の歌 FACE2 丸山研二郎 & 原口朋丈 1 大爆発の歌 2 春の調べ 3 道 4 グレ

バボリグシェ!

2歳の子どもが、 「あしゅばーてん どぅーるー!」 と歌っているので、なんだろうと思っていると、どうやらハッピーバースデーの歌らしい。 子どもの言い間違いは本当に面白い。 大人のように文字からではく、聴いたまま聞こえたままに覚えているから、結構間違ったまましゃべっている。 こちらも影響を受けて、我が家では「みそ汁」は「もしゅる」になってしまった。 「かあか、もしゅるのむ?」 聴覚を全開にして、感覚を育てている過程はとても大切だと思う。 すぐに訂正してしまったら、音のイメージ、それから感じる「物」「事」に対するイメージを狭めてしまうような気がして、そのままにしている。 いつか勝手に覚えてしまうわけで、大人になってまで間違えてる人もいないしね。 この間、クレヨンで一筆一筆線を描きながら、 「とうとの~、アリグリチェ!」 「とうとの~、バボリグシェ!」 と言っていた。 とうとには、サボりぐせはあるが、バボリグシェはなんだかわからない。 今朝は、ご飯を食べながら、 「ジャンホー、バラ!」 と唱えていた。 思わずメモしてしまうのであった。

川根本町文化会館

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川根本町文化会館にて「アートと遊ぼう」に出演! 巨大紙相撲や迫力満点のライブペイントが子ども達を待ちかまえ、音楽や、朗読、ワークショップ、お料理、など盛りだくさんの楽しい企画でした。 僕は、ホールでのソロステージに加え、書家「吉永益美」さんのパフォーマンスに音楽で参加。 良い経験をさせていただきました。 打ち上げでは関西関東から集まったアーティストの皆さんと、セッションあり、ディープな語りありの濃厚な時間を過ごすことが出来た。 しかし、川根地区の別世界感はなんだろう。 まるでこの世のものではないような霧が立ち込めて、強烈になにかが濃縮していたような気がするのだ。 これからの活動にとても刺激になった2日間だった。 皆様ありがとうございました。

Seven Elefants bring Happiness

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  音楽制作・音響スタッフとしてかかわらせていただいた、市民による創作舞台公演「セブン エレファンツ ブリング ハピネス」。 雨天にも関わらず、公演は超満員。 野外での大道芸・練り歩きのパフォーマンスも無事開催でき、充実した手応えになりました。 お越しくださった皆様、ありがとうございました。 そして参加者のみなさん、スタッフのみなさん、長い間の準備、稽古、喧々諤々の打ち合わせ(笑)お疲れ様でした。 舞台は、大正時代の七間町。急速に浸透する活動写真(後の映画)に魅力を感じる人たち、古くからの芝居にこだわる者たち。神社の伝統的な奉納舞と、自由な表現による踊りを思い描く巫女たち。 もっと伝統を守っていかないといけないんじゃないか。 昔の社会のほうがみんな幸せだったのでは? などと、僕もよく考えます。 現代の僕達の生活は、そんな大正時代のスピードよりも、より加速した変化の中にあり、起こっていることも桁違いに世の中に影響を与えていきます。 でも、100年前の静岡の七間町で起こっていたであろう、そんなドタバタした喜劇が、今の僕達の生活とリンクするのです。 劇の中で、伝統的な奉納舞に固執する神主さんに対して、「大切なのは手段ではなく、それを行う目的ではないでしょうか。」という学校の先生の台詞がとても身にしみました。 奉納舞も、誕生した時は新しいものだったのでしょう。 それはだんだんと形骸化して、変化を受け入れなくなります。 (一部のジャズ喫茶のマスターみたいなものです。おっと…失言。) 最後に神主さんが後ろ姿で、ちょっとだけ理解を示すところもいいシーンでした。 手段ではなく、目的を守っていく。 音楽や芸術もそうだし、生活の中の流行りや、衣食住、宗教や思想に関しても、とても大切な考え方だなと思いました。 この演劇のメッセージは当然これだけではなく、笑いあり、大道芸あり、美しい身体表現ありの色とりどりの構成の中に、見る人の立場によって、きっと沢山の印象があったと思える、面白い物語でした。 企画・発案は、スノドカフェ・柚木康裕さん。 脚本は、伽藍博物堂座長・佐藤剛史さん。 新年一発目に、この作品に関われたことをとてもうれしく思います。

新年のご挨拶と2017まとめ

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あけましておめでとうございます。 旧年中は、大変お世話になりました。 まずはお客様に。 そして、僭越なる音楽に華を添えてくださった舞台や会場のスタッフの皆様。 大切な音楽仲間たち。 支えてくれる家族や友人たちに感謝したいです。 という投稿がすでに9日。 遅くなりすみません。 新年一発目に謝るのも何ですが、すでに音楽活動は始動しており、とても前向きに進んでいます。 今年もどうぞよろしくお願いいたします。 昨年は…、 どんなことがあったかなと思ってコンサートの記録を見ていると、意外にもライブは30本ほどでした。 平均すると月2~3本のペースかな。 一時期からしたら随分減ったと思います。 県外も、一度東京へ行っただけでした。 が、この妙な“乗り切った感”はなんでしょうか。 きっといろいろあったのです。 他人事みたいですが、「おい頑張ったな。」と自分の肩を叩いている違う自分がいるような気持ちです。 今年は、和楽器奏者・原口朋丈氏とのデュオで沢山ライブをさせてもらいました。 「和太鼓・パーカッション・篠笛」と「ギター・声」の2つの相反する音色を、いかにお互いの良さを殺さずに、さらにこの組み合わせでなければ出来ない音楽に作り上げるか、が課題でした。 セッションを重ねて、ギターの繊細さを損なわず、そして和楽器の迫力も感じられる、幻想的な音楽に近づいていると思います。 そして、大切な音楽仲間で友人でもある「NolenNiu-de-Ossi(ノレンニゥー・デ・オッシ)」との企画「おとぎ話ツアー」では、三味線をフューチャーした彼らの音楽と、僕達とで、偶然にも非常に珍しい、和楽器に焦点を当てた音楽イベントが出来上がりました。 来年の公演も密かに企画中です。乞うご期待。 昨年末、T2オーディオの坪井氏からオファーを受け、取り掛かっていた、唱歌集「静岡県郷土唱歌」全28曲の編曲を完成。CD化しリリースすることが出来ました。 これは長い仕事だった。 音源もなく、今ではほとんど歌われていない音楽の譜面から、伴奏や前奏、間奏などをすべて作り、その上でほどよく郷愁を感じさせつつ、かといって「唱歌」の本分をわきまえたアレンジに仕上げる…。 それを28曲。という気の遠くなるような作業で