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DNA

SNSの動画で、DNA鑑定をして、その人の何代も何十代も前の先祖がどこに暮らしていたかを解明するというのを見た。 遡ると、本人は思いもしない遠い外国の血が混じっていたりする。 何% 何人 何% 何人 … … というような感じでデータが出るらしい。 ある人が普段から「何となく〇〇(国の名前)の人って苦手」と思っていたら、その国にかつて支配を受けていた民族の血が入っていた…、とか。 本当かな? と、思うが、無意識にDNAが持っている情報が影響するのだろう。 今生で得た知識や体験以外に、自分の考え方を左右するものがあるということは、とても不思議だ。 ところで、 僕は、ミャンマーのサウンという竪琴を使った歌と、ちょっと離れてフィンランドの民族音楽のメロディが妙に好きだ。 世界中の音楽を等しく大好きなつもりなのだが、なんというかグッと来かたが違うのだ。 日本の民謡だと、奄美の音楽が妙に好き。 懐かしい感じがするんだね。 僕は何%かミャンマー人で、何%かフィンランド人で、何%か奄美人なのだろうか。 祖母が、うちは平家の血だよ、と言っていた。 ほんとかどうか知らないが。 奄美には平家の落人が流れていったらしい。 意外とあたっているのかもしれない。

川原でごはん

イメージ
最近我が家では、妻の力強い発案で「川原で朝ごはんを食べようの会」がブームである。 朝早く起きて、川の上流のいいところで朝ごはんを作って食べ、昼ぐらいまで泳いだりして遊んで帰ってくるのだ。 お料理には、小さなバーベキュー用のコンロを持っていく。 野菜やお肉を串にさして焼いたり、豚汁を作ったり、これがなかなかオツなものである。 猛暑とはいえ、清流で日陰にいると結構涼しい。 妻と娘は浅瀬で変な踊りを踊ったりしているので、僕がご飯係である。 この企画自体、仕事と子育てでくたびれている妻と、毎日こども園で頑張っている娘がリフレッシュするためのものであるので、それを見ている僕も非常に楽しい。 ご飯を作り終えると、僕も川に飛び込むのだ。 プライベートな写真しかないので、イメージはイラストで。 最近は、何かにつけて娘も「また、かわにいきたいね~」などと言うようになった。 癒やし度はほぼ満点である。 最近は、ゴミの持ち帰りも徹底されてマナーのいい人が増えてきた。 しかし、ただ一点だけ苦情がある。 他団体さん。みんなで集まって楽しいのはわかるが、音楽などをかけるのはできれば止めてもらいたい。 ゴミは回収できるが、流れてくる強烈なイメージは回収できないのだ。 せっかく、ひぐらしの声とかを聴いて心をチューニングしに来ているのに、現実に戻ってしまうではないか。 こないだは大きな音で安○地帯をかけている人たちがいた。 川原で玉○浩二は特に勘弁してもらいたい。 いや、普段は好きなんだけどね。

癒やし

連日猛暑が続いているが、ひそかに秋の準備も始まっている。 青い柿の実が大きくなったり、夜には涼しい風が吹いて、秋の虫たちもチリチリと鳴き出した。 虫の音を、窓際で聴くともなく聞いていると、とても心地よい。 「癒やし」とは無条件でなければならないと思う。 歌には歌詞があり、タイトルはイメージを操る。 そこには、「意味」や「メッセージ」が乗っている。 “音楽に癒やされる”というのは、誰しも持っている体験だろう。 でもそれは意外と、ラブソングに共感して切なくなったり、新しい言葉に考えが変わっただけではないだろうか。 意味やメッセージは、音の出る方を向いてもらうための鍵だ。 言葉は条件を作って限定していくことしかできない。 ある考え方を持てば、違う考え方とは敵対することになる。 そこに葛藤が生まれて、癒やしとは反対の感情が生まれる。 音楽の本当の目的は、自然に、何かが整っていくことだと思う。 利害や、同じ考えを持つという条件でなく、無条件に他人とつながっていくこと。 それが一番の癒やしだ。