投稿

2018年ありがとう

雲の間に、明るい星が瞬いていた。 寒さの中に清々しさを感じる瞬間である。 今年いっぱいの仕事が終わり、大掃除を終え、まるで時間といろいろな用事の塊にしがみついて、振り落とされないようにこの大晦日にやってきた、という感じだ。 音楽の方では、ライブや、様々に遣っていただいた企画に足を運んでくださった皆様、関係者の皆様、そして仲間や友人たち、今年も本当にありがとうございました。 月並みだが、来年もますます精進して、そして家族の絆や仕事とのバランスを大切にしながら歩んでいきたいと思います。 来年もどうぞよろしくお願いいたします。

おとぎ話の夜 2018年12月

イメージ
NolenNiu-de-Ossi/丸山研二郎&原口朋丈「おとぎ話の夜」には、たくさんの方がお越し下さいました。 ありがとうございました。 LPレコードを発表させていただいた前回から半年。 素晴らしい先輩、デ・オッシも前に進んでいて力強く、僕たちも僭越ながらちょっと新しいものを聴いてもらうことができた。 少し風刺的な意味合いを込めた新曲「魚」と、先日の投稿でも書いた、娘と一緒に作った「ホーさん」という曲。 どちらも好評を頂いて嬉しかった。 デ・オッシのふたりは、最近はその前進であるバンド「まほろば楽座」時代の曲を再アレンジすることに力を入れている。 僕も当時の音源をいくつか聞かせてもらっているが、4人いたバンドの頃より、今ふたりが演奏するアレンジのほうがむしろ厚みがあって表現に富んでいて面白い! もちろん、当時のものも素晴らしいのだけど。 ミュージシャンの中には、ベースが入ればサウンドに厚みが出る、ドラムがいるからリズムキープできる、人数が多いほうが複雑なことができる、などなどと思いこんでいる人が意外とたくさんいる。 実は本当はみんな逆なのだ。 逆といえば極端だが、低音が加われば、上モノは高音を意識して担当しなければならず、リズムを打楽器に頼れば頼るほど、打楽器奏者はそちらに専念しなければならず、感情表現としての打楽器の魅力は失われてしまう。 いかに手数を減らすかがバンドの仕事なのだ。 デ・オッシサウンドは数々のアンサンブルの障壁を見事にクリアしている。その努力たるや同業者としては、ちょっと、いや~、まじですか…、すげー、という感じなのだ(どういう感じなのだ?)。 ややもすればクソダサいアレンジになってしまう、和楽器と洋楽器という組み合わせ。 ピアノとギターという、ありふれたようで実は難しいとされているアンサンブル(担当する音域が近いので、下手同士がやるとぐちゃぐちゃになってしまう)。 そこで一番大事になってくるのが、いかに最小で最大を伝えるかということ。 鳴っていない音を、鳴っているかのようにイメージさせる、情緒的なアレンジの技術だ。 和楽器と洋楽器、民族音楽とポップス、動と静、古い言葉と新しい言葉、など相反するものが同時にぐちゃっと丸まっているこのイベント。 一見、打ち消し合うかの...

ホーさん

イメージ
3才の娘が食事中に急に振り返って何やら話をしているので、だれと話してるの?と聞くと、 ベルギルスのタンドコのお肉屋さんのホーさん と話していたのだそうだ。 きっとベルギルスという星のタンドコという国から、異次元を通って地球にやってきたのだ。 娘いわく、最近はタンドコからバロギリというところに引っ越したらしい(笑 おもしろいのでホーさんの歌を一緒に作りました。 これはイメージ画。 ホーさん ベルギルスのタンドコの お肉屋さんのホーさんは バロギリに引っ越して 今でもお店をしているよ 一日楽しいことができる ホーさんだよ 寝るとき一日を振り返る ホーさんだよ

次代に残したい静岡の歌WS

イメージ
少し前ですが、静岡大学が行っている「アートマネジメント人材育成のための100のワークショップ」の講師を務めました。 CD「静岡県郷土唱歌」の仕事が評価され…というとおこがましいが、そんなからみでお声掛くださったわけです。講師なんてとんでもない、こちらが勉強をさせていただいたという次第。 ワークショップは「次代に残したい静岡の歌」というテーマで受講生の皆さんにグループで作詞をしてもらい、それに僕が歌をつけ、録音をする、というもの。 まずはリズム遊びから始めて、静岡に関する連想ゲームのようなコール&レスポンスをする。 もう一つ鉄道唱歌のメロディを使って「連歌」のように相手の詞と物語をつなげていく遊びを、ゆっくりと言葉を発想するエクササイズとした。 もちろん、皆さん普段はアート・デザイン、そしてそれを取り巻くお仕事に関わっている方々。作詞などお手の物かもしれない。 でも、以上のような遊びを通じて、リズムという制約の中での自己表現と、それを受容する気持ち、相手の物語を受け継ぎつつ、自分なりのウィットを加えていく、という思いやりの姿勢をもう一度体感したかった。 そして、恐ろしいほどに熱心な皆さんは、すばらしい詞をひねり出してくれた。 ここに5曲の静岡のための歌が完成したわけです。 【受講者による新静岡唱歌】敬称略 *「しずおかのひと」 (作詞:白鳥、本間、高岡  作曲:丸山研二郎) *「だもんで だいすき しずおかじん」(作詞:高橋、深野、牧野  作曲:丸山研二郎)  *「めぐる風 〜いとしき街と季節〜」(作詞:大塚、藤井、阿部、白井  作曲:丸山研二郎)  *「この街」(作詞:高島、板倉、山本  作曲:丸山研二郎)  *「はるかな三保」(作詞:柴田、飯塚、伊東  作曲:丸山研二郎) さあ、どんな歌かは、とりあえず受講した方々と関係者のみのお楽しみということで。 いずれ何かの機会に皆様のお耳に触れることもあるかもしれない、と期待しつつ。 新しい経験と出会い、素敵な歌をありがとうございました。 またどこかでお会いしましょうね~。 静岡大学アートマネジメントのウェブサイトで当日の模様をブログにしてくれたみたいです。こちらもよかったら見...

10枚!

イメージ
衝撃を受けた10枚のアルバム。 というのを音楽仲間がブログに書いていて、コメントをしたりしていたら、なんとなくこちらの方に回ってきたので考えてみた。 一枚一枚よい音楽を紹介していくのは大好きだが、10枚を選ぶとなるとこれは難しい。 そもそも「衝撃」とはどんな気持ち??というところから始まるのだ。 今まで歌謡曲しか知らないところに、初めてジャズを聞いた、とか、初めてアフリカのなんとか族の音楽を聞いた、という時のように、少年の頃に新しいジャンルの音楽を聴いて、なんじゃこりゃ!どういうふうに聴いたらいいの!?という感情は確かに衝撃であった。 しかし今となっては、さすがにその種の衝撃はやってこない。 なので、そういった気持ちも含め、影響を受けた、気持ちを救われた、とにかくそればっかり聴いた、などなど、いろいろな意味で思い出に残っているアルバムを選んでみたい。 なんだかエラソーだが、どれも愛すべきいい音楽なので、もしご存じないものがあれば聴いてみてほしいと思う。 1 シベリウス 交響曲第2番 https://www.youtube.com/watch?v=y4UJqOQ0x4s 子供の頃、父親と一緒によく聴いた。僕の音楽の原体験。 第4楽章のクライマックスに行くまで、ハラハラとしながら聴いたものだった。 クラシック好きの人に話すと「ああ、あれね。」と鼻で笑われてしまうぐらい、その世界では有名な曲だ。記憶にある限り、僕の音楽に対する「感動」はここから始まったと思う。 2 Duke Ellington & John Coltrane https://www.youtube.com/watch?v=m2agjcTUgF8 中学生ぐらいのころ、家の捨ててしまうようなガラクタの中に一本のタイトルのないテープがあった。何が入ってるのかな?と何気なくかけてみたところ、いかにも不思議な音楽が流れてきた。 「ジャズ」という言葉すら知らなかった僕は、そもそもこのテープの中に入っているモノは「音楽」なのかしら?と思いながら、なぜか何度も何度も聴いた。 ちょうどその時、ごろごろしながら読んでいた漫画「銀河鉄道999」の世界観と妙にマッチしたのを覚えている。 それがこの有名なアルバムだと知ったのは、成人してからだ。 ジャ...

DNA

SNSの動画で、DNA鑑定をして、その人の何代も何十代も前の先祖がどこに暮らしていたかを解明するというのを見た。 遡ると、本人は思いもしない遠い外国の血が混じっていたりする。 何% 何人 何% 何人 … … というような感じでデータが出るらしい。 ある人が普段から「何となく〇〇(国の名前)の人って苦手」と思っていたら、その国にかつて支配を受けていた民族の血が入っていた…、とか。 本当かな? と、思うが、無意識にDNAが持っている情報が影響するのだろう。 今生で得た知識や体験以外に、自分の考え方を左右するものがあるということは、とても不思議だ。 ところで、 僕は、ミャンマーのサウンという竪琴を使った歌と、ちょっと離れてフィンランドの民族音楽のメロディが妙に好きだ。 世界中の音楽を等しく大好きなつもりなのだが、なんというかグッと来かたが違うのだ。 日本の民謡だと、奄美の音楽が妙に好き。 懐かしい感じがするんだね。 僕は何%かミャンマー人で、何%かフィンランド人で、何%か奄美人なのだろうか。 祖母が、うちは平家の血だよ、と言っていた。 ほんとかどうか知らないが。 奄美には平家の落人が流れていったらしい。 意外とあたっているのかもしれない。

川原でごはん

イメージ
最近我が家では、妻の力強い発案で「川原で朝ごはんを食べようの会」がブームである。 朝早く起きて、川の上流のいいところで朝ごはんを作って食べ、昼ぐらいまで泳いだりして遊んで帰ってくるのだ。 お料理には、小さなバーベキュー用のコンロを持っていく。 野菜やお肉を串にさして焼いたり、豚汁を作ったり、これがなかなかオツなものである。 猛暑とはいえ、清流で日陰にいると結構涼しい。 妻と娘は浅瀬で変な踊りを踊ったりしているので、僕がご飯係である。 この企画自体、仕事と子育てでくたびれている妻と、毎日こども園で頑張っている娘がリフレッシュするためのものであるので、それを見ている僕も非常に楽しい。 ご飯を作り終えると、僕も川に飛び込むのだ。 プライベートな写真しかないので、イメージはイラストで。 最近は、何かにつけて娘も「また、かわにいきたいね~」などと言うようになった。 癒やし度はほぼ満点である。 最近は、ゴミの持ち帰りも徹底されてマナーのいい人が増えてきた。 しかし、ただ一点だけ苦情がある。 他団体さん。みんなで集まって楽しいのはわかるが、音楽などをかけるのはできれば止めてもらいたい。 ゴミは回収できるが、流れてくる強烈なイメージは回収できないのだ。 せっかく、ひぐらしの声とかを聴いて心をチューニングしに来ているのに、現実に戻ってしまうではないか。 こないだは大きな音で安○地帯をかけている人たちがいた。 川原で玉○浩二は特に勘弁してもらいたい。 いや、普段は好きなんだけどね。

癒やし

連日猛暑が続いているが、ひそかに秋の準備も始まっている。 青い柿の実が大きくなったり、夜には涼しい風が吹いて、秋の虫たちもチリチリと鳴き出した。 虫の音を、窓際で聴くともなく聞いていると、とても心地よい。 「癒やし」とは無条件でなければならないと思う。 歌には歌詞があり、タイトルはイメージを操る。 そこには、「意味」や「メッセージ」が乗っている。 “音楽に癒やされる”というのは、誰しも持っている体験だろう。 でもそれは意外と、ラブソングに共感して切なくなったり、新しい言葉に考えが変わっただけではないだろうか。 意味やメッセージは、音の出る方を向いてもらうための鍵だ。 言葉は条件を作って限定していくことしかできない。 ある考え方を持てば、違う考え方とは敵対することになる。 そこに葛藤が生まれて、癒やしとは反対の感情が生まれる。 音楽の本当の目的は、自然に、何かが整っていくことだと思う。 利害や、同じ考えを持つという条件でなく、無条件に他人とつながっていくこと。 それが一番の癒やしだ。

言葉に関するくだらない考察 その2

そういえば、相手を呼ぶときのちょうどいい言葉ってないよね。 とふと思った。 日本語には、「敬意逓減(ていげん)の法則」というのがある。 長く使われている言葉の、丁寧な印象がだんだん失われていくというもの。 最近、「~させていただきます」がやたらと乱発されるのもその一つだろう。 「させてもらいます」とか、「いたします」では何となく失礼に聞こえるようになってきちゃったのだ。 「お前」はごく身近な目下の者にしか使えないし、同じように二人称である、「君」とか「あなた」とかも非常に使いづらい言葉になってきた。 すでに僕たちの世代は「あなた」と呼ばれると、何となく上から言われているような印象を受ける。友達に「君さあ」というのもちょっと怒っているみたいだ。 さてどうしよう。 そこでよく使われるのが「あっ」という言葉である。 いちいち名前言うのも違うし、うまく相手を呼べないけれど、いきなり本題に入るのも不躾だというときに、よく、 「あっ、そういえば、こないだどこどこ行った?」 などと使うのだ。「あっ」のところに「きみきみ、聞いてくれたまえ」という意味がこもっている。 でも、「あっ」は二人称じゃないしなあ。 「YOUさあ」とか「お主は」などふざけて使うときはあるが。 「君」と「あなた」が勢いよく生きているのが歌詞の世界だ。 使わないと意味が伝わらないのでね。 きざな言い回しにすると、すこし敬意というのは上がるらしい。

言葉に関するくだらない考察 その1

最近なんだか残念なこと。 トラックやワゴンなどによく社名が書いてありますよね。 進行方向から読むようになっているので、車体の右側は右から左へと読むように書いてある。戦前の読み方ですね。 これが最近減って、反対側も普通に読めるように左から書いてある車が増えてきたのだ。 なぜ残念なのか、まったくくだらない理由だが、反対から読むとただ面白いのだ。 「スーリタンレラハイ」とか、「ムテスシトイア」とか書いてあるのだ。 一番のヒットは、 「キンデダンホ」 であった。 まったく共感の得られない話だ。 社名変なことに使ってすみません。