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本音

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4さいの娘によくぶったたかれる。 これが結構イタイのだ。 機嫌が悪くてするときもあるし、遊んでいて抑制が効かなくなる時もある。 でも、いけないことは教えなければならない。 とうとは、こうされたのがとっても痛くてつらかった。 こう言われたのが嫌だったから、謝ってほしい。 と自分がめっちゃ素直になって、自分のこころを打ち明けるのってすごくこっぱずかしいというか、勇気がいることに気が付く。 思えば大人になってから、何かいざこざがあった時に、私は本当はこう思っていてあなたにこうしてほしい、と素直に表現できたことってどれだけあったかな。 結局、言えなかったり、言ったとしても本音じゃなかったり、陰口に変わったりしたことが多かったんじゃないかな。 さっき大ゲンカしたと思ったら、けろっとしてまた「遊ぼう」って寄ってきてくれる。 そんな風な大人に、僕はなりたかった・・・。 っていうか、今からでもなれる!

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障がいの方の支援をしていて、当然だが、枠にはまらない人が多いなぁと思う。 「作業所」という枠、「グループホーム」という枠、「ヘルパー制度」という枠の中にすんなりいられる人もいれば、その中で、本人の自然な姿と、周りに求められる姿とのギャップに苦しんでいる人も多い。 ある意味「障がい」という考え方自体が、「普通の人」という枠の外にいる、という健常者の考えと言えなくもない。 障がい福祉の制度も、こういう人はこちらでみましょう、こういう方はこちらで…、という枠の連続だ。 いろんな形の枠を並べていけば、当然隙間ができるわけで、そこに取り残されてしまう人もいるのだ。枠ごとに中身をしっかりしようとすればするほど、形は固くなってしまい、ある人には入り辛くなる。 みんなとは違う行動をする人がいると、決まりを作って同じにしましょう、と言う。すると当然、それを守れない人が出てくる。好かれる人、嫌われる人がはっきりしてくる。 手を差し伸べようとする人まで、枠の外に出ている、といって締め出されてしまう。やっと入り込んだ枠の中にも枠があって、上下左右そして4次元方向へも、枠だらけなのだ。 時間の枠、場所の枠、立場の枠、人間関係の枠、気づかいや道徳の枠 物理的に不自由な人や、理解が難しい人にはとても追いつけないし、できる人でも超頑張らなくてはならない。 でも、みんな枠を作りたがる。 枠の内側にいたいからだ。 ほんとうは、枠を作らなくてもOKなように対話したり、自分の中の精神的な枠を広げたり壊したりしていかなくてはならないと僕は思うのだ。 それはとっても怖ーい。 オオカミに食べられちゃうかもしれないからね。 誤解を恐れず、勇敢に、外で戦っている障がいの方をみると、すげーなーと思う。