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12月, 2016の投稿を表示しています

2016まとめ

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今年も、暮れようとしています。 ライブ納めを終え、さて今年はどんな一年だったかと振り返ってみる。 やはり子育ての影響もあり、県外には一度しか出なかったし、ライブ自体は非常に少なかった。 でも、ひとつひとつの演奏や企画が、思い出深い一年であった。 前半は、ダンスワークショップ、市民文化会館のダンス公演など、ダンス関係の演奏が多かった。 1月に和歌山県の小学校で、アオキ裕キさんのダンスワークショップのお手伝いをして以来、今年は県外には行かなかった。 珍しい年である。 一番大きな出来事だったのは、やはりアルバム「空の灯」が完成・発売できたこと。レコ初の演奏会をLIVEHOUSE UHUでさせてもらえたことである。 自分にとっては、このような大所帯をまとめることや、ライブの進行を今までとガラッと変えてみたことも冒険だった。 これは、反省点も多かったが、来年以降は更に発展させたい。 写真がないが、自分の実家「正晨寺」で、コンサートを行えたことも嬉しい出来事だった。 浜松のジャズシンガー・鈴木麻美さんとのデュオで、自分の演奏が一段階ステップアップできた気がする。 密かに楽しかった三池平古墳まつり。 豪雨のため古墳上では開催できなかったが、しみじみと楽しんだ。 ライバル「NolenNiu-de-Ossi」とのライブを、ただのツアーミュージシャン企画から、もう一歩向上させたくて、「おとぎ話の二夜」というイベント名を立ち上げた。 自分の音楽が一体どんな物語を経て成り立っているのか、それを聴いた人は、またそれぞれが持っている物語と重ね合わせて、どんなことを感じるのだろうと思いを巡らせた。 日本画家・森谷明子さんの作品「国誉めの歌」の数篇の詩に歌を付けた。自分以外の人の言葉に歌を付けるというのは、予想以上の面白い作品を生むことがある。 この企画でも、これからも歌っていきたい素敵な歌が誕生した。 ソロでは、ガットギター一本だったが、「ナッシュビルチューニング」が気に入って、最近のライブではギターを2本使っている。 きらきらと高音の出るチューニングと自分の声や演奏がよくマッチす

初あそVIVA!劇場

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今年最後のライブは、実は初めて伺う場所。 大道芸人あまるさんの「あそVIVA!劇場」でした。 今年いっぱいを振り返りながら気持ちよく演奏させて頂きました。 ありがとうございました。 写真の小劇場の客席裏手には、小さなおでんバーがあって、数人分しか席がないにもかかわらず、明らかに人数オーバーなお客さんたちが、ぎゅうぎゅうと仲良く椅子を並べて語り合っているのであった。 その雰囲気が、稀に見るあたたかさというか、ああ、これはもうあまるさんの人柄そのものだなー、というお店なのである。 しかも、おでんがとても美味しい。 もちろん普段は劇場なので、演劇や大道芸の公演がある。そちらもいつか覗いてみたいな。 バーのみの営業は第2、4水曜19:00~23:00のみ。 ぜひ一度、飲みに行ってみてはいかがでしょう! 今、静岡の七間町周辺は劇場・ライブハウス・カフェなどが集まって密かな盛り上がりを見せている。 演劇や大道芸、現代アート、音楽などのパフォーマンスを中心とした、面白いまちづくりが進んでいくだろうと思う。 僕も来年以降、今まで以上に関わっていくことになるだろう。 そんな新しい年への楽しみを感じた、今年最後の演奏でありました。

サーカス物語

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先日、久しぶりに演劇を観た。 ミヒャエル・エンデ「サーカス物語」である。 あまり素晴らしかったので、ここしばらく余韻に浸っている。 解散の危機にゆれるサーカス団に、巨大化学工場から“おいしい”話がもちかけられた。ただし、一座から少女エリを追い出すという条件付き…。現実を受け入れるか、大切なものを守るためにたたかうか――悩むピエロのジョジョや団員たち。けれど何も知らないエリはいつものようにお話をせがむ。ジョジョが語りはじめた恋と冒険の物語にはエリや団員たちも姿をかえて登場し、いつしか空想は現実を変える力を持ちはじめる。 登場人物のサーカス団員たちは、まさしく現代の僕たち音楽家や芸術家だと思った。 合理主義や、大企業や権力の二面性や、はたまた輪廻転生や、ヒューマニズムや、いろいろな伏線が張り巡らされていて、感動的ながらもよくよく読んでみないと、理解するのは難しいかもしれない、というそんな作品である。 でも、理屈では伝わらない何かが大事なのは、いちばん自分たちがよくわかっていること。 しみじみと涙がでるシーン。 音楽と言葉。 やさしさ。 それで十分なのだと思う。

2つのホームコンサート

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この土日の2つのミニライブはとても印象的だった。 一つは、ある友人がヘルパーに入っているお宅でのミニコンサート。 車椅子生活で闘病中の奥様と、ご主人のために、友人が時々企画しているということ。 ご家族はあたたかく迎えてくださり、僕は心穏やかに演奏することができた。 自分も日中は福祉の仕事に携わっていることもあり、新たにその仕事と音楽をつなぐ道筋が見えたような気がしたライブであった。 もう一つは、ピアニストのまゆちゃんが自宅で開いている教室のファミリーコンサート。 僕と、和楽器の原口朋丈氏の2人で、特別ゲストとしてお呼ばれした。 近所の子どもたちや、お父さんお母さんが集まって、みんなで歌ったり、ピアノや歌を発表したりする、ほのぼのとしたいい会だった。 ちょこんと座って、一生懸命、篠笛とギターの音に興味を持って聴いてくれる子どもたちは、とてもかわいかった。 最近、「随分、独りよがりな演奏をしているね。君は何のためにその技術を得たわけ?」と心の中の誰かによく言われるのだ。 福祉や、子どもたちのために、なんていうことは自分の技術を省みるだにおこがましいが、下手は下手なりに、役に立つ道がきっとあるんだろうと思う。 ひとつひとつの演奏で、何を伝えたいのか、ちゃんと考えないとね。

クリスマスソング

妻と子へのクリスマスプレゼントに、クリスマスソングの曲集のCDを買った。 アイリッシュハープで演奏されている曲集だ。 街中で流れている安っぽいアレンジのはあまり好きになれないが、よく聴くとクリスマスソングってみんないい曲なんだ。 長いこと歌い継がれている曲ほど、ちゃんと丁寧に編曲・演奏されたものを聴きたいと思うのである。

三大要素

音楽で、リズム・メロディ・ハーモニーのうちどれが一番大事ですか?と聞かれた場合。 うーむ、と考え込んでしまう。 みんな大事だからね。 しかし音楽の成り立ちからいえば、リズム→メロディ→ハーモニーの順で進んでいかねばならないはずである。 ピラミッドの一番下がリズムで、その上にメロディ、さらにてっぺんにハーモニーか、または円の中心にリズム、外側にメロディ、最後の円がハーモニーというようなイメージだ。 あ、後の例えのほうが平和だな。 ところが、学校教育では記憶にある限り、メロディ→ハーモニーの順に教わり、リズムに関しては特にあまり触れない。 せいぜい合奏のとき、先生の手拍子に合わせろと注意されるぐらいである。 メトロノームのように正確なだけではダメで、仲間とコミュニケーションしながら走ったりモタったり、微妙に揺らいで、いい間を作ったりする。 一人で演奏をするときは、自分の内面や微妙な聴き手の雰囲気とコミュニケーションしていく。 そのリズムなしには、メロディ・ハーモニーは存在しない。 先の円のイメージで言えば外側のハリボテだけ。存在しているように見えるだけ、になってしまう。 そんな音楽のいかに多いことか!! と憤慨する前に、自分が練習しなさい。 …はい。 ハーモニーも似たようなもので、周波数的に完璧に合っているだけでは、むしろ何だかかえって外れて聴こえるときがあるから、音楽とは不思議なものだ。 そもそも、三大要素って誰が言ったの? 「歌詞」は入らないのか。

絵のない絵本

この頃、アンデルセン「絵のない絵本」を読んでいる。 屋根裏部屋で暮らす貧しい画家のもとに、毎晩「月」がやってきて小さな物語をしてくれる、という素敵なお話しだ。 時に楽しげな、時に儚げな異国の物語である。 体力と時間がないからかもしれないが、短編が好きだ。 そして特に起承転結のない、ただの情景で十分である。 空の灯音楽隊のライブでは、小さな物語の朗読をMCの代わりにして演奏をした。 こんな風な情景とともに音楽を奏でてみたいな。 ところで「月」というのが本当に本当の月なのか…、それとも何かの人物の比喩なのか…、というのが気になるところだが、深読みしすぎるのは、私生活でも僕の悪い癖だと思う今日この頃であった。

もめんが好き

遠くの山の色は何とも形容しがたい。 青でもなく、緑でもなく、濃いような薄いような色である。 白桃色の空と、そんな強くて仄かな富士の山肌と、冠雪と、刷毛で曳いたような雲が美しい夕方だった。 最近、ふと「湯豆腐」などが食べたくなる。 しみじみしたいと思う。