2018年8月12日日曜日

DNA

SNSの動画で、DNA鑑定をして、その人の何代も何十代も前の先祖がどこに暮らしていたかを解明するというのを見た。

遡ると、本人は思いもしない遠い外国の血が混じっていたりする。

何% 何人
何% 何人



というような感じでデータが出るらしい。

ある人が普段から「何となく〇〇(国の名前)の人って苦手」と思っていたら、その国にかつて支配を受けていた民族の血が入っていた…、とか。

本当かな?

と、思うが、無意識にDNAが持っている情報が影響するのだろう。

今生で得た知識や体験以外に、自分の考え方を左右するものがあるということは、とても不思議だ。


ところで、

僕は、ミャンマーのサウンという竪琴を使った歌と、ちょっと離れてフィンランドの民族音楽のメロディが妙に好きだ。

世界中の音楽を等しく大好きなつもりなのだが、なんというかグッと来かたが違うのだ。

日本の民謡だと、奄美の音楽が妙に好き。

懐かしい感じがするんだね。

僕は何%かミャンマー人で、何%かフィンランド人で、何%か奄美人なのだろうか。

祖母が、うちは平家の血だよ、と言っていた。
ほんとかどうか知らないが。

奄美には平家の落人が流れていったらしい。

意外とあたっているのかもしれない。

2018年8月10日金曜日

川原でごはん


最近我が家では、妻の力強い発案で「川原で朝ごはんを食べようの会」がブームである。

朝早く起きて、川の上流のいいところで朝ごはんを作って食べ、昼ぐらいまで泳いだりして遊んで帰ってくるのだ。

お料理には、小さなバーベキュー用のコンロを持っていく。

野菜やお肉を串にさして焼いたり、豚汁を作ったり、これがなかなかオツなものである。

猛暑とはいえ、清流で日陰にいると結構涼しい。

妻と娘は浅瀬で変な踊りを踊ったりしているので、僕がご飯係である。

この企画自体、仕事と子育てでくたびれている妻と、毎日こども園で頑張っている娘がリフレッシュするためのものであるので、それを見ている僕も非常に楽しい。

ご飯を作り終えると、僕も川に飛び込むのだ。


プライベートな写真しかないので、イメージはイラストで。


最近は、何かにつけて娘も「また、かわにいきたいね~」などと言うようになった。

癒やし度はほぼ満点である。


最近は、ゴミの持ち帰りも徹底されてマナーのいい人が増えてきた。

しかし、ただ一点だけ苦情がある。

他団体さん。みんなで集まって楽しいのはわかるが、音楽などをかけるのはできれば止めてもらいたい。

ゴミは回収できるが、流れてくる強烈なイメージは回収できないのだ。

せっかく、ひぐらしの声とかを聴いて心をチューニングしに来ているのに、現実に戻ってしまうではないか。

こないだは大きな音で安○地帯をかけている人たちがいた。
川原で玉○浩二は特に勘弁してもらいたい。

いや、普段は好きなんだけどね。

2018年8月8日水曜日

癒やし

連日猛暑が続いているが、ひそかに秋の準備も始まっている。

青い柿の実が大きくなったり、夜には涼しい風が吹いて、秋の虫たちもチリチリと鳴き出した。

虫の音を、窓際で聴くともなく聞いていると、とても心地よい。

「癒やし」とは無条件でなければならないと思う。

歌には歌詞があり、タイトルはイメージを操る。
そこには、「意味」や「メッセージ」が乗っている。

“音楽に癒やされる”というのは、誰しも持っている体験だろう。
でもそれは意外と、ラブソングに共感して切なくなったり、新しい言葉に考えが変わっただけではないだろうか。

意味やメッセージは、音の出る方を向いてもらうための鍵だ。

言葉は条件を作って限定していくことしかできない。
ある考え方を持てば、違う考え方とは敵対することになる。

そこに葛藤が生まれて、癒やしとは反対の感情が生まれる。

音楽の本当の目的は、自然に、何かが整っていくことだと思う。

利害や、同じ考えを持つという条件でなく、無条件に他人とつながっていくこと。

それが一番の癒やしだ。

2018年7月28日土曜日

言葉に関するくだらない考察 その2

そういえば、相手を呼ぶときのちょうどいい言葉ってないよね。

とふと思った。

日本語には、「敬意逓減(ていげん)の法則」というのがある。
長く使われている言葉の、丁寧な印象がだんだん失われていくというもの。

最近、「~させていただきます」がやたらと乱発されるのもその一つだろう。

「させてもらいます」とか、「いたします」では何となく失礼に聞こえるようになってきちゃったのだ。

「お前」はごく身近な目下の者にしか使えないし、同じように二人称である、「君」とか「あなた」とかも非常に使いづらい言葉になってきた。

すでに僕たちの世代は「あなた」と呼ばれると、何となく上から言われているような印象を受ける。友達に「君さあ」というのもちょっと怒っているみたいだ。

さてどうしよう。

そこでよく使われるのが「あっ」という言葉である。

いちいち名前言うのも違うし、うまく相手を呼べないけれど、いきなり本題に入るのも不躾だというときに、よく、

「あっ、そういえば、こないだどこどこ行った?」

などと使うのだ。「あっ」のところに「きみきみ、聞いてくれたまえ」という意味がこもっている。

でも、「あっ」は二人称じゃないしなあ。

「YOUさあ」とか「お主は」などふざけて使うときはあるが。


「君」と「あなた」が勢いよく生きているのが歌詞の世界だ。

使わないと意味が伝わらないのでね。

きざな言い回しにすると、すこし敬意というのは上がるらしい。

言葉に関するくだらない考察 その1

最近なんだか残念なこと。

トラックやワゴンなどによく社名が書いてありますよね。

進行方向から読むようになっているので、車体の右側は右から左へと読むように書いてある。戦前の読み方ですね。

これが最近減って、反対側も普通に読めるように左から書いてある車が増えてきたのだ。

なぜ残念なのか、まったくくだらない理由だが、反対から読むとただ面白いのだ。

「スーリタンレラハイ」とか、「ムテスシトイア」とか書いてあるのだ。

一番のヒットは、

「キンデダンホ」

であった。

まったく共感の得られない話だ。
社名変なことに使ってすみません。

2018年7月26日木曜日

根っこ

アパートの外の花壇にジョーロで水をかけていてふと思い出したこと。

幼稚園のころ、一人ずつ育てていた朝顔に水を上げるとき、

お花のところにたっぷりかけてあげようね。
お水をかけるとお花さんが喜んでいるよね。

と教わった。

僕は、きらきらと輝いている花の笑顔を思った。


小学校に上がって、同じように課題であった朝顔の花に水をやっていると、

ねえ、まるやまくん、上から水かけてもしょうがないよね。

植物は根っこから水を吸うんだから、この下の土のとこにかけてあげなくちゃ、水がとどかないでしょ?

と先生が言ったのだ。

僕は少しのショックを覚えた。

それは小さな小さな「現実」に出会った瞬間であった。


子どもは空想のゆりかごの中から、少しずつ現実の苦さや、また旨味を知り大人になっていく。

空想の中で見たものが、外の世界をどう捉えていくかの色眼鏡に変化していくのだ。

空想と現実が上手に入り混じって、初めて人間らしいやさしさが生まれる。

周りの大人達がしてくれたように、僕も自分の子だけでなく、関わる子どもたちのゆりかごを守るように子育てをしていきたいと思う。

2018年7月20日金曜日

忙しいのである

最近は連日猛暑が続いている。

まずは大雨などにより被災されている方々に、心からお見舞い申し上げたい。


最近すっかりブログというものを書いていなかった。

ほぼ毎日更新していた時期もあったが、そんなころとは比べ物にならないぐらい忙しくなったのだろう。

というのは、やはり子育てという一大事業に心を費やしているからに他ならない。

以前はあんなによく見て記事にしていた自然や景色も、ほぼ目に入らないぐらいのスピードだ。

家にいるときはほとんど子どもにまとわりつかれているので(半分はたのしいのだが)、まずはこういった二次的なことは後回しにせざるを得ないのだ。


とはいえ、そればかりが人生ではない。

誤解を恐れずに言えば、親が趣味も何もかも捨て去り、とにかく子供第一第一で邁進する家庭というものは、実は、意外と、ああごめんなさい、怒らないで、とついたてに隠れながらも言わせてもらうならば、意外となんだか却ってギクシャクしているように思う。

ある意味、いい加減さというか、テキトーさのようなものは大切にしておかないといけないなと思う今日このごろである。