カンボジア演奏旅行記 その4
その他のいろいろなお話。
■縁ってすごい!
JHPの2人の日本人スタッフのうち、なんとひとりは同郷で、なななんと同じ高校であった。何この縁!?すげー!と話をしていると、
初めて会い食事をした他支援団体の方2人は、偶然にも義姉の旦那の元同僚であり、もうないよね…、と思っているとJHPのもう一人のスタッフの方は義姉の青年協力隊時代の同期であった。
カンボジアで会った日本人、なぜかみ~んなどこかで繋がっているのでした。
世間って狭いのね。
っていうより、全然違う人間関係から招かれていったにもかかわらず、義姉夫婦の手の内から脱出できていないじゃないか(笑)
何なんだあの人達。
■茂みには入るな
森や茂みには入るな、と言われる。
内戦時代の数万ともいわれる地雷がいまだに埋まっているからだ。
処理も進み、被害に遭う方は減っている。
特に多いのはタイ国境の地域で、首都近郊には少ないそうだが。
■クメールフードはおいしい
タイ料理ほど辛くなく、パクチーも強くなく、
料理によっては和食のようなテイストもあり、日本人にもなじみやすい。
僕はレモンの入ったサワースープが大好き。
辛くないトムヤムクンみたいなのね。
■結婚式
FIDRの若いスタッフがちょうど翌週に結婚式を控えていた。
音響のセッティングに何かと世話を焼いてくれたロタナック君。
おめでとう!
カンボジアの結婚式は賑やかである。
道端に色とりどりのテントを張って、その下で生バンドが爆音で演奏し、みんなで踊る。
設備のリース、バンド演奏専門の業者がいるそうだ。
金持ちになるとテントで道路を封鎖してしまう。
ちょろっと警察官に袖の下が必要みたいですがね…。
あ、そうそう。
バラードで踊る時に、みんな手を上げてゆらゆら返すような踊りをしていた。
これがなんか沖縄のカチャーシーに似てるんだ。
これってルーツかもしれないと思いました。
■トゥールスレン虐殺博物館
1979年ごろまでポル・ポト派による知識階級の虐殺は続いていた。
かつて学校だった建物が収容所となり、筆舌に尽くしがたい拷問や殺戮が行われた。
職業による差別、思想による差別、ほとんどが無実かでっち上げである。
果ては、メガネをかけている(学者っぽいから)とか外国宛に手紙を出した、というだけで捕まった人もいたそうだ。
2万人が収容され、生存者はたったの12人。
また一般の多くの人は、農業者として地方へ強制移住させられ、一時プノンペンはゴーストタウン化した。
40代以上の方はほとんどがその体験者だ。
今では学校でも丁寧に歴史を教えるようになり、昔はなんとなくタブー視されていたポル・ポト時代のことを、自分から語る人も増えてきたらしい。
報道されないが、世界ではいまだ人権侵害がひどい地域が沢山ある。
知る知らないにかかわらず、世界中は流通や金融や情報網でつながっている。
少しでもそういった思想に加担しない言動、生活を目指したいと思う。
カンボジアの人たちはよく笑ってくれる。
僕もあいさつするときにっこりするのが好きだ。
日本でも毎日そうしている。
いつもそうありたいと思う。
■まとめ
さて、長々と文章を散らかしてしまったが。
たった1週間というわりに、超濃密な体験、そして人間関係を作らせていただきました。
まずは発案をしてくださったFIDRの佐伯さんに感謝。
1週間、移動中や食事中ずっと語り合って、めちゃ仲良くなりました。
そしてFIDR、JHP両団体のスタッフの皆様。病院や保健センターの皆様、ロリオス村のお母さん、子どもたち。
本当にありがとうございました。
少しでも、医療・教育支援のお役に立てたでしょうか。
僕は大きな勉強をさせていただきました。
「次回」のお話をそこここでしてくださっていたので、また関わらせていただけることをひそかに期待しつつ。
活動報告を終わりたいと思います。
あっ。
サソリの件はどうなったかって?
生きてるから大丈夫。
これからも頑張って生きますよ。
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